紀伊国屋文左衛門(~1718年)別邸と伝えられ、幕末まで関宿(千葉県)藩主 久世大和守屋敷、明治になって三菱財閥の岩崎弥太郎(1834-85年)が買収して明治18年に回遊式の築山山水園「深川親睦園」完成。関東大震災で大きな被害を受けたが避難場所として多数の人命を救いました。岩崎家ではこうした庭園のもつ防災機能を重視し、東半分を大正13年、東京市に寄付し名園として都民の憩いの場ととして昭和7年公開した。新東京百景に選ばれている。西半分の敷地は昭和52年開放公園として追加開園した。
八郎右衛門が新邸を建てた地。のち、幕府や宮内省の貯木場になりました。1733年(享保18年)頃から徳川幕府が材木蔵として材木を貯蔵していた。 現在は埋めたてられ原形をとどめていないが、約5,6ヘクタールの水面が広がっていた 海水と真水が程よく混じり40~50年経っても材木の品質を損なう事無く貯蔵できたという 南側地区は1924年(大正13年)皇室から払い下げられ、1932年(昭和7年)猿江恩賜公園として開園 北側地区はその後も貯木場として使用されたが、1976年(昭和51年)江東区潮見に移転され250年の歴史を閉じた 跡地は東京都に払い下げられ、南地区とあわせて14ヘクタールの公園が完成した
中の島は明治36年(1903)、越中島と佃島を結ぶ相生橋が架けられた時に中継地点をなった島です。当時、中の島から佃島側に相生大橋、越中島側に相生小橋の二つの木橋が架けられていましたが、大正12年(1923)、震災により焼失してしまいました。昭和2年(1927)、相生橋の再建の後、中の島は隅田川唯一の水上公園として整備されました。