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伝統と未来に息づく水彩都市・江東について
江東区は、江戸時代より現在に至るまでおおよそ400年の間、川を中心に発展してきました。
江戸の市街地に近く、水運の便に恵まれ、埋め立てに適した広い湿地帯があったことが、発展の要因でした。えどじだいには河川や掘割に木場や倉庫、問屋などが立ち並び明治、大正時代には、紡績、製材、鋼鉄、機械などの工業が発達しました。
昭和30年代後半になると、多くの工業が区外に転出し、跡地には集合住宅が建設されるなど住工混在の都心に近い町として発展してきました。また、輸送路としての使命を終えた運河は、現在では親水公園として生まれ変わっています。この歴史は、決して楽なものではありませんでした。度重なる水害た火災あるいは関東大震災や第2次世界大戦、戦後の復興期から高度経済成長期における公害、地盤沈下など犠牲が伴いました。
現在の「水彩都市江東」と呼ばれるうるおいのある町並みは、長年に渡る多くの人々の多大な努力の上に出来上がったものです。「水辺のまち」が形づかれていく中で、蓄積されてきた歴史的資源と伝統文化は区民共有の貴重な財産であり、そこに住む人々の心のよりどころでもあります。
【時代】
年代
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地図
[●現在の江東区役所の位置]
画像をクリックすると大きく見れます。
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説明
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【江戸初期】
1590
~1657
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材木問屋
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木びき
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江東区地区の開発は、徳川家康の入府によるえどのまちの拡大とともに始まります。
この頃まで江東地区は、ほとんどが低湿地で、亀島、大島、宝六島、永代島などの地名でわかるように小島が点在していました。
開発は、現在の森下を中心にとした深川村、佐賀・永代辺りの永代島、猟師町、小名木川南岸沿いの海辺新田、大島や砂町などで行われました。
この頃は、石島や千田あたりは、まだ海でした。
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【江戸中期】
1658
~1803
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中川船番所
(江戸名所図会)
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東都三ッ股の図
(国芳画)
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小名木川
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小名木川は、行徳の塩を江戸に運ぶために開さくされました。利根川水系を利用した船運の終着地として物流流通の要路となり、番所橋付近には、船の関所として船番所が設けられました。
また、堅川、大横川、横十間川などの開さくも進み、新大橋、永代橋が架けられ江東地区が大いに発展しました。
現在の佐賀を中心とした隅田川の沿岸には米、雑穀、油、干鰯(ほしか)等の倉庫が建ち並び問屋取引が盛んに行われました。木場には材木商が江戸市中から移って来ました。
亀戸、砂村などは江戸の近郊農地として、つまみ菜、亀戸大根、砂村葱、砂村西瓜、砂村丸茄子などを供給しました。 |
【江戸後期】
1804
~1876
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五百らかん寺さざえ堂
(北斎画)
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洲崎初日の出
(広重画)
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木場 |
亀戸梅屋舗
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官営セメント工場
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この時代は、江東地区には多くの文人墨客が住み独特の文化が生まれました。
今でも狂歌師、国学者、画家、横綱などの墓碑が数多く残っています。また、風光明眉な景色や、寺社の開帳、祭礼などの年中行事を中心として、江戸市民の行楽地が区内各所にありました。
辰巳八景や亀戸梅屋敷、五百らかんさざえ堂などは、浮世絵や歌曲などで当時の賑わいをうかがうことができます。
明治維新(1868年)により江戸は東京と改められ、現在の江東区の地域は、東京府下となりました。 |
【明治中期⇒
大正中期】
1877
~1922
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永代橋
(東京新撰名所図会)
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小名木川風景
(東京新撰名所図会)
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深川古石場町
潮除堤の眺望
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明治から大正にかけてのこの時代は、産業革命の時代です。江東区地区には多くの工場が立地します。
清澄の浅野セメント、亀戸の日清紡績、砂町の大日本製糖などです。
埋立はごみ処理、隅田川のしゅんせち土により、現在の1丁目、木場1,6丁目、塩浜1,2丁目、古石場3丁目で行われました。
荒川放水路の開さく、砂町下水処理場の完成したのは大正12年でした。 |
参考資料:水辺のまちの形成史〔2003年7月〕
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